納期ギリギリの案件は、なんとか無事に終わった。
「終わったぁ……」
西村は椅子に沈み込み、両腕をだらんと垂らす。新人もデスクに突っ伏している。
「お疲れ様!」
瀬乃が小さなペットボトルを配って回る。
「お前ら、片付けたら帰れよ。」
狩峰が短く言うと、部下たちは顔を上げて苦笑した。
西村が立ち上がると、周りもそれに続く。
「じゃあ、僕もそろそろ帰ります。」
新人がぺこりと頭を下げると、西村も続けて頭を下げる。
「じゃあ、お先です!」
部下たちは次々とオフィスを出ていった。
***
オフィスには狩峰と瀬乃だけが残った。
「……お前も、意外と無茶するよな。」
狩峰はペットボトルを回しながら、瀬乃の方をちらりと見る。
「うちのチームが手伝えたのは1日だけですけどね。」
「それに狩峰さんが困ってるのに、放っておけませんよ。」
瀬乃はさらりと言った。
「……そういや、お前が新人の頃もこんな感じで遅くまで仕事してたな。」
瀬乃の手が一瞬止まる。
「まぁ……そうですね。でも、狩峰さんがいたんで。」
瀬乃はすぐに笑って流すが、その目には少し懐かしさが混じっていた。
***
[回想シーン] 瀬乃の新人時代
瀬乃はデスクに向かい、険しい表情でキーボードを叩いていた。
モニターに映るタスク管理ツールは未完了のマークで埋め尽くされ、画面の端には「期限超過」の赤い文字がいくつも並んでいる。
焦る気持ちを抑えようと深呼吸をするが、心臓の鼓動は止まらない。
終わらせなければならない仕事が山積みで、今日も終電ギリギリまで残ることになりそうだった。
その時——
「新人、遅くまでご苦労さん。」
コーヒー片手に歩いてきた狩峰が、瀬乃のデスクの前で立ち止まった。
「あ、えっと、狩峰さん。お疲れ様です。」
瀬乃は慌てて背筋を伸ばす。
「……お前、随分しんどそうな顔してるな。」
「え、いや、そんなこと……」
狩峰は腕を組みながらデスクの上を見た。
積み重なった未処理の資料、整理されていないメールの通知——どう見ても仕事が回っていない。
「……で、仕事の進め方はわかるのか?」
瀬乃は言葉に詰まり、うつむく。
「いえ、さっぱりです……。」
狩峰はため息をつき、デスクの上にあった資料を手に取ると、瀬乃の前に放り投げた。
「これを読め。」
「……? これ……」
「仕事の流れをまとめた。お前が一からやり直せるようにな。」
瀬乃は驚いたようにページをめくる。
そこには業務の基本的な進め方や、クライアント対応のフローが細かくまとめられていた。
「……ありがとうございます。」
狩峰は何も言わずに視線を逸らし、ポケットからタバコを取り出した。
「で、お前の上司は誰だ?」
瀬乃は少し躊躇いながらも、意を決して名前を挙げた。
「……あいつか。」
狩峰はライターの火をつけ、静かに息を吐いた。
「あいつは差別がひどいからな。ろくに指導もせずに放置するクセに、ミスしたら部下のせいにするようなやつだ。」
瀬乃は無言で拳を握る。まさにその通りだった。
「……お前、明日からうちのグループで働け。」
「えっ?」
「異動の申請は俺が通しておく。」
「え、でも……。」
「お前、あいつの下にいたら、まともに仕事を覚えられねえだろ。」
狩峰は紫煙をくゆらせながら、ふっと口角を上げた。
「それに、仕事できそうなやつを埋もれさせるのは、こっちとしても惜しい。」
***
[現在]
「あの時、『私は』狩峰さんに救われたんですよ。」
瀬乃の声が少しだけ懐かしさを帯びていた。
狩峰はペットボトルを軽く回しながら、「そうかよ。」とぼそりと呟く。
***
「そういえばこの前電話してた、お前のクライアントって……」
「え? あ、分かりました?」
瀬乃はあっさりと認めた。
「やっぱりこの前飲みに行った時に迎えに来てた彼氏か。」
「そうです。学生時代の同級生でして。」
「今度、結婚するんです。」
狩峰は驚きこそしなかったが、少し目を見開く。
「そうか。それはめでたいな。」
「ありがとうございます。狩峰さんも、ぜひ結婚式にいらしてくださいね。」
「ああ。楽しみにしてるよ。」
瀬野は幸せそうな笑顔を浮かべた。

数週間後——。
カメラのシャッター音が響く。
白無垢に身を包み、柔らかい笑顔を浮かべる瀬乃。
その横で、スーツ姿の男性が嬉しそうに微笑んでいる。

— END —
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